07




あれからずっと寝付きも寝覚めも悪い。
日ごと深まるマイナス思考には、朝も昼も夜もあまり関係がなかった。
当然ながら受験勉強ばかりか普段の授業にも集中出来ず、さぞ最悪な顔色になっているのだろう、がそこまで落ち込むなんて、と友達は真剣に心配をしてくれたけど、それさえも自分がどれだけ能天気に暮らして来たかの証拠にしか思えなくて、ただ無駄に日々を費やす。
自習室から足が遠のいて久しい。
朝練の予定を聞くのも、お昼の約束をするのも、放課後一緒に帰れるかどうか尋ねるのも、彼の用事次第である程度自分の行動を決める事も、綺麗に丸ごとなくなってしまった。
精市くんは決して急かしたりしない……というか、連絡ひとつないのが現状だ。
こうなってくると考える猶予を与えてくれているのか、忙しさのあまり余所事に構っている暇がないのか、それとも自分の感情もまともに制御出来ない私に呆れたのか、どれも合っている気がして来、一方で全て間違っているような感覚に陥り本当に何もわからなくなった。手探りすら叶わない。
闇雲に考えを巡らせた所でろくな答えも見つからないと理解しているのに、学校へ行けば嫌でも意識せざるを得ないから益々削られていく。
嫌な事を聞いたわけじゃないのに耳を塞ぎたくなり、授業や受験勉強に集中しようとすればするほどペンを持つ手が微かにぶれて、その時その時には関係ない感情が溢れ零れてどうしようもなかった。
(私は普通に一緒にいたかっただけだけど、精市くんはいつかこういう日が来るってわかった上で行動して、今まで過ごしてきたんじゃん。……それってずるじゃないの?)
責めたって仕方がない。
(私のお見舞いなんてほんとに一個も役に立ってないよ。なんでちょっとでも役に立てたのかもなんて思えたんだろう)
精市くんは悪くない。
(信じきっちゃダメなんだってあの頃は気づいてたのに)
もう年単位で前の放課後、投げられた声が今さら鮮明に蘇る。

『でもその分よく話し合うからね、齟齬がなくなっていいよ』

けれど彼自身に打ち明けて貰えなければ良いも悪いもないし、齟齬だって生まれやしないのだ。お話にならない以外のなんだと言うのだろうか。
脳がもっとずっと遡って見つけた記憶が消えていかずに延々残る。

は、俺の言う事なんでも信じちゃうよね』

それどころか、言葉にしない部分でさえ無条件に信じ込んだ。精市くんがかつては信頼するに足る人だった事を差し引いても、あまりにも考えなしだ。
どこから食い違い始めたのか、何を掛け違えてしまったのか、バカな私には見当もつかない。
(もしかして、初めからなのかなぁ……)
弱い独り言が胸の中をじっとり湿らせ一歩も動けなくする。思考の底なし沼に沈んでいく。なんとか進もうと力んだり、重い泥から足を抜こうとする気概はとうに雲散霧消、露と消え落ち跡形もなくなっている。
同じところで立ち竦み、時間だけが無駄に過ぎていくのをぼうっと眺めるばかり。
あの時、吐き出した言葉が矢のように鋭く速く戻って来る。

私ってなに。

多分きっとなんでもなかった。吹けば飛ぶ薄い紙きれより軽いもの。
精市くんにとってというより、誰より私が私の価値や意味を見いだせない。考えても考えても結局はわからずじまい、わからないまま向き合えるはずもなく、またその意気地もなかった。
立海がマンモス校で良かったと感謝したのは初めてかもしれない。
会わずに済むだけの広い敷地があり、加えて何をしていても目立つし人の噂にもしょっちゅうのぼる彼が相手だから、避けるのは想像以上に簡単だった。
クラスが離れているのも事ここに至っては有り難い幸運だ。もし今の状態で同じ教室で過ごさなければならなかったら地獄を味わっていた、おそらくあらゆる手を使いずる休みだってしただろう。
廊下は風紀委員の人に咎められないギリギリの速度で早歩き。
いつの間にか梅雨に突入していた曇りがちの空を透かす窓の外は見ない。まかり間違ってかの姿を目撃したが最後、胸の底がじくじく痛み始めるからだ。
精市くんの教室をよけてわざわざ通る階を変えたりもした。
名前の字を見るのも辛くて嫌だった。
全校集会や朝礼の度、我が校きっての素晴らしい生徒として紹介や表彰されやしないかびくびく怯えていた。
呆れ返るほど馬鹿馬鹿しく子供じみた最低な態度だと理解しておきながら、ひたすら避ける生活を続ける内、止め方すらわからなくなってゆく。
本当に自分にはわからない事、知らない事だらけなのだと嫌でも思い知らされ、どんどんタイミングを見失い行き詰まった。
肩が縮こまり目線は独りでに下を向く。
叶えたい夢や進みたい道の為に先を歩く彼の眩しさと裏腹に、情けなさや自己嫌悪が増大してどうしようもない。
心臓の下辺りにぽっかりあいた穴や開く一方の距離は、寂しい、苦しい、悲しい、どれも当てはまらないのに重たい渦を巻く感情を生むから、時々体の真ん中を力いっぱいぶちたい衝動に駆られ、あまり上手に出来た気がしないが表に出さないよう頑張るのにも苦労した。

何日経っても、週が過ぎていっても、連絡は入らない。

端末をチェックするどころか画面を視界に入れるのも憂鬱で、電源そのものを切ろうか血迷った瞬間が何度も。
顔を見ない、声も聞かず、彼が打ったメッセージすら目にしない生活は、これ以上ないほど別々に生活しているのと同じなのに、どうしてか遠く離れている感じがせず、それが余計に苦しかった。
私の甘えなのか、単なる現実逃避なのか、思考放棄なのか、一生懸命考えてもやっぱりわからないし、判断もつけられない。

だけどそうやって距離を置いて初めてわかってくる事は、意外なくらいたくさんあった。

精市くんが、もしかしたら小学生の頃から浴びていたスポットライトの強さ、勝利を重ねていく毎に付き纏う責任と、‘さすが常勝立海’‘勝って当然だ’ずっと言われる立場にいる事、どれだけ周りの期待を背負って来たか。
海外行きはどう転ぶかわからないチャレンジなのだろうけれど、お前ならきっとやれると確信を持って背中を押され、あの幸村だから遅かれ早かれまあそうなるよな、みんな納得していて、日本を飛び出せる実力と実績を兼ね備えている。
私なんかじゃ想像もつかない厳しさのただ中に身を投じておきながら、そういうたくさんのものを全部まとめ上げてしまう。手際よく跳ね除けている事も悟らせぬ柔和な微笑みで一掃、鮮やかに弾き返し、向かい風を物ともせずいつも通りに進み続けて歩みを止めない。
――そんな人が、もう何年も前に克服した病気の所為で『最終的なリハビリと調整』と口にしなければならない重さを思うと、何ひとつ口に出せなくなった。私なんかに言えるはずがなかった。
自分勝手な感情に振り回されている今の自分はただの恥晒しだ、場違いにもほどがある、精市くんの事をもっと心配したり気遣ったりするべきだったのに、バカみたいにのん気にへらへらしていただけ。
傍にい過ぎて程度の低い頭じゃ気付けなかった。まるで大きな布に覆い隠されたよう見えなくなっていたのだ。
奥歯を噛み締めたって時間は戻らない、同じ場所で地団駄を踏むような真似をし、一人だけ置いていかれる状況を覆す事が出来ないでいる間にも、ひっきりなしに耳へ飛び込んで来るのは立海が誇る神の子への賞賛。

さすが。
すごい。
努力の人。
才能溢るる若者。
かっこいい。
将来有望株。
お前らちょっとは幸村を見習うんだぞ。
憧れの先輩。
夢を捨てずに諦めないでずっとやって来たんだから。
我が校初の世界的有名人候補かも。
今の内にサインもらっとこうかな。

和やかな笑い声や感心に耽る溜め息、仰ぎ畏怖する遠巻きの気配、密かに騒ぐ女の子達のささめきの全部が混じり合わさって、さざ波のよう繰り返し鼓膜を浸す度、途方に暮れて沈み込む他なく体が重い。
一度、道順と時間帯を見誤り、鉢合わせる数秒前、すんでの所で逃げ帰ったのを思い出す。
『おっ幸村。どうだ準備の方は? あんま急いで無理するなよ、体の事もあるしな』
『はい。ありがとうございます』
通り掛かったらしい学年主任の先生の軽い調子と、こういう時は優等生然と律儀に答えるかの人の声音に毛穴がぶわっと沸き立った。
廊下の角を曲がるか曲がらないかの瞬間だった、いつもの微笑みを浮かべ応じた横顔が瞳の上っ面を掠め、首を締め上げられでもしたかという勢いで息が止まってしまう。
精市くんが傾けていた首の角度を正面へ戻す速度がやたらとゆっくりに映り、曇天が招いた昼にもかかわらず薄暗い空気を照らす蛍光灯の変な明るさは目の奥をこまやかに強く弾く。
彼のやや俯いていた視線が上向くその一瞬、恥も外聞も放り投げ来た道を全速力で駆けた。上履きの底が床を叩いて跳ねる音はすぐそばの階段中に響かんばかりのけたたましさだったが、構っている余裕なんてない。
走って、走って、逃げて、転びそうになってもまだ走る。無我夢中で足を動かす。
恐ろしくあからさまだ、とことん避け続けているのに気付いたかも――、だけどやっぱり、追い掛けて来る人影はなかった。
マラソンしているみたいにいつも息が乱れて酸素が吸えていない境地に落とされ、泣き言を零しそうになる都度、病気をしていた精市くんは私よりずっと苦しかったんじゃないか、思えて仕方がない。
皆が彼に注ぐ憧れ、健闘への拍手喝采、心からの応援、やまぬ尊敬、諸々の眼差しの中に憐憫や気遣い、これからが頑張りどころだろうという心配、ここまで本当に大変だったねと優しく労うものがいくつも混じっているように見え、ひと度それらを裏返せば全部自分が出来なかった思い遣りの羅列だと突き付けられる。
精市くんは本当に私の何がよくて、一緒にいてくれたんだろう。
一向に震えない携帯端末をポケットの中で握り締めると、ひんやりとして冷たかった。梅雨寒が延々と長引く弊害が指先に這い寄り、体温を内側から奪っていくみたいだ。冷え症の私にはちょっと辛くて、この時期になってもまだ冷たいのかい、笑って大きな掌で包んでくれる人も今はいない。
いつの間にか両足共に萎えている。
はたと立ち止まっても考える力はない。
唇から漏れる呼吸もあるのかないのか感じ取れないほどで、硬く縮こまった肺がいつまで経っても吹き返して来なかった。
名前を呼んでこちらを振り返ったり、なんだいと柔らかく尋ねてくれたり、あたたかな音でと紡いでくれた、すぐそこにいた精市くんをちゃんと思い出せるのに、この先また同じように触れられるイメージがまるきり浮かんで来ない。
録画再生機能。
よぎった単語がずっしり圧し掛かった。
陽の光がうらうらとして眩しく、教室の机や床を静かに濡らしていた五月の頃が目の裏を焼く。
透明な薄い膜が張られている、テレビを見ているみたい、現実感のなさ、時間の流れや状況が違うところにいて、通じない。
あれからもっと悪化し酷くなった感覚が足の裏、上履きの底から忍び上がり、体中をじわと毒していく。溜め息も出なかった。


そんな風に何か大切なものを失い始めた頃、目を反らす暇もないほど真正面からかち合ったのだ。


はっと空気を急に飲み込んだ顔をしたのは、一体どちらが先だったろう。
その日の授業を全て終え後は帰るだけだった放課後、課題に必要で借りた資料を返却日の明日戻せば良かったものを、あいた時間の調節が上手に出来ないばかりに思いつきで図書室へ向かったのがいけなかった。
よく前を見ず進んだ所為で手前の資料室から音もなく滑り出て来た人影の、見慣れた高さに強かに心臓を打たれる。自分で自分の表情を確かめる事は出来ないけれど、少なくとも私はわかりやすく呼吸が途切れた。
意外だったのは精市くんの方だ。
出会い頭に突然鉢合わせたからか息を詰め軽く目も見開き、心なしか頬が強張っている。
途端、隠し通せない動揺が走り、吸った酸素が吐き出されず肺に充満した。
ぐっとブレーキを掛けたきり止まったつま先がにわかに痛み始め、上がる一方の速度の脈をどうする事も出来ず、精市くんの教室を避けたのに失敗した、なんでこんなとこでどうしようどうしたら、混乱した脳みそが慌てふためき唇の端に震えが宿った時、

「やあ、

つい数秒前の僅かな異変を鮮やかに翻されたあげくなんでもない事みたいに微笑まれ、体の芯が一気に凍り付いた。
語尾に、久しぶり、元気だったかい、とでも付いてきそうな物言いである。
耳たぶの後ろ下の窪みが張り詰めて唾液のようなものに侵され変に痛い。昂ぶった感情の影響を受けた視界はぶれて、相も変わらずどんよりとして晴れぬ空を反射する壁と廊下の色をより暗く染め上げ、膝から下が斬られたみたいに何も感じなくなってしまい、自分がちゃんと立てているのかどうかも危うく、抱えた資料集と図録を取り落とすまいと気を張るだけで精一杯。
破裂一歩手前まで膨れた心臓がどくどく跳ねる、拍動に合わせてろっ骨が微かに軋んでいるんじゃないかと思わず手を当て確かめかける、引き結んだきり閉じられた唇の奥、干上がりカラカラになった舌や喉が見る間に枯れて声も出ない。
いつも通りの記憶と違わぬ優しい笑顔を向けられても、こっちは縛り上げられ無慈悲にたたっ切られた気分だ。
何があってもどんな事が起きても変わらない様はまさしく神の子、いかに私という存在がなんでもなかったかの証明でしかない。吹けば飛んでどこか遠くへ消える、その程度の軽さなど最早初めからないのと一緒だろう。
ああも物別れに終わった話し合い直後から今に至るまで一切の連絡もなく顔すら合わせなかったのに、何故平気な顔で話し掛けられるのか、ただの人の子風情には見当もつかない。
びゅうとガラス窓を打ちつける風が雨雲を運んで来ている、校舎の外はさっき教室を後にした時より鈍い黒色を増し、誰がいつの間に灯したのか知れぬ蛍光灯の明るさが肌に染みた。
殺した息が浅くなる。
汗もかいていないのに指先が滑って荷物を落としそうになってしまう。
凶暴な熱の塊で腫れた気管は吐く息すら通さず、籠もりに籠もって酸素が薄まる。
顔があつい。両頬によくない類の力が入る。まばたきすらろくに出来ない。
至る箇所に影を落とす灯りが細やかに明滅し、透明な窓は時折強くぶつかる空気の切っ先で不規則に揺れている。
ちょっとの沈黙を守り、精市くんが死に体の私にトドメを刺した。

「……考えは、まとまった?」

じくじくというレベルで留まっていた痛みがその言葉で腫れ上がり胸の中心を握り潰して鼓動は一回止まったと思う。喉の内側が勢いよく閉じられいよいよ呼吸が不可能になった。
いつだって冷静で間違えない彼に何をどうやって返せというのか。

「この状況でまとめられてたらすごいよね。そんなのもう私じゃないって感じだけど」

皮肉にもなっていない棘だけはある、だけど震えが隠せない声を響かせるのが精々だ。
本当は傍にいた私が誰より気遣わなくちゃいけなかったのに、出来ない事だらけだった毎日を後悔したばかりのはずなのに、この期に及んで一つとして上手くやり遂げられない。
、とひどく落ち着いた調子で私を呼ぶ人の常と大差ない顔色が信じられなかった。間近に見上げたのち半歩後ずさる。
せっかく私の考えがまとまるのを待っててくれた精市くんに申し訳ない、違うよこんなの待っててくれたんじゃなくて放っておいただけじゃん、気まずい空気にならないで普通に話し掛けてもらえて良かったんじゃないの、なんとも思っていないから平気なだけだ、今すごく忙しいだろう人を相手にこんなどうしようもない態度を取っている場合じゃない、でも言いたい事を全部抑えて寄り添える思慮深い人間になんて急になれっこない。
気持ちが生まれては勝手に打ち消されを幾度も繰り返し、ぐちゃぐちゃに積み重なって掻き回され収拾がつかなくなっていく。
もう一度、精市くんが私の名前を柔らかになぞった。



数え切れないほど耳にした慕わしい響きにまた傷ついて目線が情けなく下がる。余計にみっともない。手加減なしの刺激を受けた涙の出所がわなわなとぶれて我慢するのに必死だ。

「君の考えがまとまらないのはわかったよ。けれどまだ時間は、」
「私の考えがいつまで経ってもまとまらなかったらどうするつもりなの? ずーっとずーっとそんなの続けてくの?」

場にそぐわない理不尽な返しだと自分でもわかっていても勝手に飛び出していく。

「俺は続ける」

と思いきや、刃を取って返す速さで負けず劣らず強引な事を言うから頭に血が上った。

「意味…わかんない、言ってることが無茶苦茶!」
「無茶でも何でも関係ない」
「……ある…」
「ないよ。俺にはね」

いっそ冷淡な迷いのなさに泣きたくなって掌を握り締める。
覆らない意志の強さが窺えるひと言を口にしておきながら、なんで突き放す言い方をするんだろう。どうして私には何も言ってくれなくて、こんな時でも大事なことだけは話してくれないんだろう。待っていて欲しいとか別れようとか離れていても頑張ろうとか、ともかくこれからどうして欲しいのかを教えてくれないんだろう。
声にならない剥き出しの感情が集って厚みを帯びた直後、あえなく萎えて薄れる。
しぼんだ肺は色も形もない中身を薄く押し出すだけだ。
背骨がぐにゃと溶け腰も曲がり、今にもくず折れる錯覚を抱く。
言葉を重ねれば重ねるだけ噛み合わなくなってゆく予感がやまず、何をどう連ねてもすれ違い、私の伝えたい事や気持ちは上滑りする一方で届く気がまるでしない。
どっと力が抜けた。
――だめだ。
本当にまとまらないし、会話を続ける気力だってもうない。
絶望の境地に立たされ肩を窄ませつつ静かに息を吐く。
こちらが後退した分だけ歩を進めて来る精市くんのネクタイの色や僅かな揺れを見るとはなしに見ていた次の瞬間、背後から放られた声に首裏を叩かれた。

「あら幸村君! さっき職員室であなたのクラスの先生が、君を待っていた様子だったけど」

肩先をびくつかせた私が振り向くより先に、知らない先生が向かい合わせの私達の横を通っていく。
ちらと滑る柔らかな視線を体の側面で感じた。

「いつも大変そうね。大丈夫、無理はしていない?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」

痛ましいものを慈しむ目が、精市くんをしとやかに見詰めている。

「そう。そうね……幸村君なら大丈夫だとは先生も思うけど、やっぱりしんどくなっちゃう時はあるじゃない? 本当に辛くなったら一人で溜め込まないで、誰かに相談するようにね」
「あはは、大袈裟ですよ。ただ、お気遣いには感謝します」
「100点満点の答えねえ。ある意味心配だわ」

くれぐれも体には気をつけてね。
最後まで完璧な気遣いを忘れずに、見ている人へ安心感を与える笑顔も付け加え、静々とした足音の余韻を残し歩き去っていくまでの、一連の流れと落ち着いて優しい雰囲気に平手打ちを食らった。叩かれてもいないのに頬が痛いような気さえする。
先生こそ100点満点の対応だ。
心の中で思い知るや否やカッと頬が高熱を持ち、一層みじめでもう消えてしまいたい。怒りが反転しあっという間に後悔と懺悔へ塗り替えられていく。悔しさともどかしさ、己の底値知らずの不出来加減に奥歯を噛み締め、流したって仕方がない涙なんか零すまいと必死で食い縛った。
ごめん、とシンプルかつ子供じみた謝罪の単語がまず浮かび上がってぐるぐる回り出す。
先生レベルにまで達せなくとも、私が見習い実行すべきだった事は今みたいな配慮なのだ。
これほど長く一緒にいて一度も出来なかった、出来た覚えのない思い遣りの形。

「……?」

不思議そうな精市くんに答えなくちゃいけないと思うのに頭の中は好き勝手に感情を巡らせ暴走する。
どうして、なんで言ってくれなかったの。アメリカ行きの話だけじゃなくてずっとだよ。検査結果も、入院していた時も、一番苦しかった日の事も、私の前では口にしない。だからずっと何もわからない。

「ごめんなさい」

ぽろと転がった声があまりにも幼く聞こえ、いよいよ本格的に羞恥より自己嫌悪や呆れが勝る。どうして謝るんだと問われたかもわからないが幻覚の可能性も否定し切れず、己の五感すら信じられなくなっていた。
自分がどんな表情をしているのか判断をつけられないまま仰いだ彼のかんばせはどうだろう、いつも通りなのだろうか。懸命に目を凝らしてみても、こちらを見下ろす双眸にはたして変わりがないのかあるのか本当の本当にわからない、何も。
中途半端に開いた口がはくはくと湿り気を帯びつつある空気を無為に吸っては吐く。

神の子と尊称されるほど才気に満ちた人が何故、よりにもよって体が動かなくなる難病になんてかかってしまったんだろう。なんで彼なの。その頃たまに話すクラスメイトでしかなかった自分は胸を張って主張する立場じゃないけれど、精市くんは悪い事なんて絶対にしていないはずなのに、全国三連覇を狙う強豪部のキャプテンだったから体にだって気を遣っていたはずなのに、どうして病気はこの人を襲ったんだ。それが運命だったなんて絶対に思いたくない。才能も夢もなんにもない私が代わってあげられたらよかった。そっちの方がまだマシだったように思う。
今の今まで知らなかった、気付けなかった所為で思い遣れなかった。
気遣いの言葉だってろくにかけてあげられなかった。
おまけに今の私は自分の感情に振り回されるだけで、先生に指摘されるほど忙しい将来の偉人に、ひたすら避け続けた上に連絡をしなくて申し訳なかった、と謝るべきだった所、開口一番意地を張り優しい言葉の一つも言えないでいる。酷いなんてものじゃない。吹けば飛ぶ以前の問題、足枷にしかなっていないじゃないか。
ただでさえ重い病気を背負っていた過去を持ち、これからリハビリをしなくちゃいけないくらい大変なのに。
こんなの、精市くんが可哀相だ。


「ごめ」
「やめろ」

んなさい。
二度目の謝罪は最後まで紡げなかった。
冷え冷えとした低い音に遮られた所為だ。

「可哀相なものを見る目で慰めようとするな。そんな風に特別扱いなんかされたくない」

私に向かって叩き付けるみたいに。

「別に俺は死にに行くわけじゃない。……言っただろう、最終的な調整とリハビリ。テニスの為、前へ進む為に必要な事だ」

あんなにぼやけて掴めずにいた彼の両の目の奥底に、今すぐにでも燃え広がりそうな勢いで激しさが揺らめいている。

「今度の事だけじゃない、ずっとそうだった。そうし続けて来た。俺は俺の意志で、自分自身の為に選んだんだ。それを君が……否定するのか。俺はいつまで病人なんだ。君達の言う‘俺が頑張っている姿’はそんなに可哀相か?」

射殺す眼差しが廊下の薄暗い光を突き破り、もの皆全て切り裂く鋭さで容赦なく刺される。
足裏を縫い止められたよう動けない。
時間の流れが掴めなくなった。私と精市くんが同じ場所にいるのかさえわからなくなってしまう。
残酷なまでにずれた様は時差に似ている。
海の向こうに行ってしまう前から違っている。息が消えたきり戻って来ず、ぶつけられるものの強さに膝が小さく震え出しているのに目を反らせない。
それは、彼が今まで絶対に見せてくれなかった深い傷だった。

「君にはわからない」

床に吐き捨てられた言葉が割れ散らばり皮膚を貫いて内臓まで達する。

「何がわかる?」

わかるわけないだろと続く冷え切った音に体温が奪われ指先は凍り付く。瞬きも出来ない。お陰で剥き出しの角膜が乾いて渇いてどうしようもない。潤む暇さえ与えられなかった。
呼吸している自覚がないのにくぐもった息の響きが頭の中で反響し、鼓膜の裏は跳ねてはやまる心臓や脈の動きに押され出所ので知れぬ焦燥や恐怖に駆られる。
名前を呼ぶなり会話に応えるなり何なり、口にすべき事の一つも紡げずにただ唇を細かく振るわせるしかなくなった、その時。
睨む程度の表現では足りない激情を湛えた瞳が不意に濁った。
真向いの精市くんが僅かに首を下へ傾けたのだ。
ぞっとするほど怜悧な様相を保っていた表情が歪む。眉間に苦しげな皺が刻まれ、恐ろしく強かった人を刺す視線はあっけなく外され力なく落ちた。
何かを押し殺す気配を飲んだ彼が、呻きに近い掠れ声を零す。

「まともに動かない体のまま、病室で過ごすしかなかった日々の事も。…………あの日、」

すぐ傍にいる人の呼吸が短く揺らぐ。
一層大きくひずんでいく。

「待ち合わせ場所で…君が病院に行ったと聞いた時。俺が、どれだけ……っ」

頭のてっぺんを思いっきり殴られたみたいに目の前が真っ白になった。
あ、と意味のない単語が肺の底から駆け上がり絞られた喉を通って舌上を転がり口を突きかける。何も返せない。唇の表面が渇く。なにも考えられない。堪え切れず吸い上げた酸素は悲鳴に似た音を奏でながら気管をぎいぎい擦った。
底なしの色で塗りたくられていた瞳を一度の瞬きで移し替え、さっと元の姿勢に戻った精市くんが全てを跳ね除け拒絶する眼差しで真正面から私を射抜く。

「代わってあげたい、何かしてあげたかった、だなんて出来もしない事、絶対に言うなよ。思いもするな。辛いのはわかるけど頑張れ? きっと大丈夫だよ? 無茶でも何でもしなければ俺はコートへ戻れなかったのに、無理をするな? 何も知らないくせにうんざりだ。二度と聞きたくない」

血の滲む声に鼓膜を割かれ一歩も動けない、それどころかたかだか一秒目を閉じる事も叶わず、だからといって言葉を重ねられるわけでもなかった。
一音一音の内に誰かを、見えざる何かを呪いでもするかのような暗い炎を燻らせていたその人は、裏腹に凍り付いた視線でこちらを一瞥し、肩にジャージが乗っているんじゃないかと錯覚を起こすほど優美な仕草で身を翻す。上履きで廊下を踏む微かな響きも耳に残らない、静寂を貫く歩き方でどんどん遠ざかっていく。一度たりとも振り返らず、そうする気配さえ微塵もなかった。
大きくて骨張った背中が階段の方へふっと消えて初めて、私は息を吹き返す。
ついでに今の今まで全く途絶えていた鼓動が一気に高まり暴れ始め、こめかみやら胸の奥やらを乱暴に掻き毟ってすごく痛い。
ついさっきまで綺麗に忘れていた記憶が次から次へと心に現れ、鮮明に浮き立ち始める。


今年の春。
休み最後の日曜日だった。
デートしよう、

『久々にゆっくり話したい事もあるからさ』

両足ががくがく小刻みに揺れ出し立っていられなくなる。しらずしらず荒くなった呼吸に追い詰められて喘ぐしかない。
病院の待合で暢気に座っていた私の左手に触れた、精市くんの指先は震えていた。
隣にいるのに目が合わない。
見下ろされている事に気が付いて尋ねれば、なんでもないよと静かに微笑んだ。
喉を塞ぐ高熱を放つ塊が、う、と聞き苦しい呻き声を生んで涙も出ない。脳内ではギプスをはめた自分の足の映像が連続して再生され、ああ、ああ、と誰にも届かない絶望めいた小さな叫びが飽きもせず回り続けてい、時々、そんな、そんな、に成り代わって延々とぐちゃぐちゃに繰り返された。
中学二年生の彼は、練習試合帰りに倒れて、救急車。
そのまま私なんかじゃとても理解出来ない、‘わかるわけがない’時間をほとんど一人きりの病室で過ごした。

『どうしてもっと、早く話してくれなかったの?』

震えて止まらなかった唇の感触と自分の声を思い出す。
ただじっと聞いていた精市くんの姿が、残酷なくらいまざまざと蘇る。

(ちがう)

言わなかったんじゃない。
精市くんは言えなかった。話せなくなったんだ。
――彼に言わせなかったのは、私。
ずっとずっと私のせいだった。





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