08




週間天気予報には雨か曇りのマークがずっと並びっぱなしだ。
あんた傘忘れないようにしなさいよとお母さんが毎朝しつこく繰り返すので、教室のロッカーに折り畳み傘を入れておく事にした。出掛けに傘はと問われた時、学校に置いてある、答えておけばひとまずやり過ごせる。ただその分、家に着くまでなら大丈夫だろうと何も持たず昇降口を出、下校途中で濡れ鼠と化しての帰宅となると軽く倍は怒られるから、問題解決には至っていないのかもしれない。
しとしと降り続く水の音が耳にこびり付く。
朝から晩まで止まない雨に煙る街並みはぼんやり掠れ、夜になれば車のヘッドライトさえうっすらぼかしてしまい、濡れ通しのアスファルトは行き過ぎるタイヤの轍をかたどって、裂くような響きをより一層大きくさせた。
学校の廊下や壁に染み込んだ湿気の所為か、建物自体がしなびて頼りない感覚を抱かせる。一度水底深くへ沈んで上がって来た後みたい。
硝子窓に貼り付く透明な雫は日によって大粒だったり細かなものだったり、激しくぶつかった様子を残す事もあれば、よくよく近付かないと流れた跡が見えない時もあった。
水たまりを避けるでもなく踏み入って突っ切る。
泣き叫びたい気持ちは渦を巻いているのに涙が出て来ない。
まるい水滴を浴びたローファーは濡れて光り、雨の残骸がつるつるした表面を滑って地面へ吸い込まれていく。我慢強く見詰めたとて流れ落ちたものは行方知れず、コンクリートの濡れ模様と区別もつかなかった。
握る指先と掌の内が傘の持ち手にへばりついて離れない。

君にはわからない。何がわかる? わかるわけないだろ。

転がった不安定な呼吸の機微まで鮮明に再生され反響する。
‘わからない君に、俺の気持ちを話した所で何になる?’
ありもしない続きが勝手に聞こえて来る程あの声音は冷たく凍り、他の何者も寄せ付けず閉じられ、全てを突き放していて、何より切実だった。剥き出しの激情だった。昨日今日の話じゃない、一瞬の内に沸いて溢れたのでもなく、きっとずっと昔から彼の中で血液と同じに流れ巡っていたもの。
何を一人でわかったつもりでいたんだろう。
だんだんわかってきた事がある、だなんて、ほんのちょっとと言えどもよく自負出来たものだ。思い上がりも甚だしく、一つも気付いていなかったくせして恥知らずとはこの事。これじゃあ例えば、本当になんにも知らないんだね、と浅慮を蔑まされても仕方がない。
何が起きたか、何を経験したのか。
知識としては理解してもそういう目に合った人がどういう気持ちを抱くのか、どんな風に考えが変わるのか、繊細に思い遣れなければ何も知らないのと一緒だ。事情に明るくない赤の他人と変わらず、上辺しか見えていない。
だから弾き出されるのだ。
少しも話してくれないし、お前になんかわかりっこないと拒絶される。当たり前じゃないか。
気にしていない風に見えても、平気そうに振る舞っていたって、本当に平気とは限らない。思う所など欠片もなく綺麗に澄んだ心のままではいられやしないと膝をつく。
そんなの、誰にだってある事なのに。
彼は大丈夫、精市くんならいいだろう、なんでも出来るし強い人だから、と雑に片付けていいはずがなかった。
遡れば遡った分だけ滲んだ後悔で胸が腐る。
普通ならもっとずっと以前に向き合うべき問題で、今更悔やんだところで過去へ戻れるわけもなく、どうして気付かなかったのか我ながら理解不能だ。
もうずっと抱いて来た感情ではあるけれど、私は心底自分が恥ずかしい。馬鹿さ加減にほとほと嫌気が差して、生まれ変わってやり直したい等という子供じみた願望に救いを見いだそうとしてしまう度、情けないやら己の至らなさやらを突き付けられて一層落ち込む。
(バカ、バカだよ、ほんとにバカだバカバカバカバーカ!)
繰り返しては思考の沼へと沈んでいく。
ひとしきり己を罵倒したって、何か、なんでもいいから何かないかと探してみたところで、私は真田くん達みたいにテニスも出来ないし、お医者さんじゃないから助けてあげられない。
自分がいかに精市くんに比べたらずっと頑張っていないかを知っているから、頑張れ、だなんて口が裂けても言えない。
謙遜でも何でもなく、本当になんの力にもなれないのだ。

そもそも、病気の完治をどうやって判断するのだろう。
仮に今、問題はないでしょうと診察を受けても、将来再発する可能性がゼロだと断言するような人はいない気がした。いつ破裂するかわからない爆弾を抱えているのと一緒なんじゃないか、考え辿り付き呆然と立ち尽くす。
(……私、勘違いしてた)
手術とリハビリを乗り越え、辛苦の末に難病を克服し、思い切りテニスが出来るようになればそれでおしまい。
めでたしめでたし、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。
人はそんな風にエンディングを迎えられない。
いつ再発するか、再発しないにしても故障をしないか常に気を付け、黙々とトレーニングをこなし、試合で勝つ為の努力を怠らず前へ進んでいく。
体ばかりか、心の戦いをしなくてはいけないのだ。
もし彼がプロの世界へ飛び込むのなら、私なんかじゃ想像もつかないくらい厳しい日々を送るのだろう。二十歳の式だってまだまだ遠い話でしかない現状からすれば、はるか遠い未来までずっとそれが続く。
――途方もない。
私程度の人間は想像するだけで身震いし、指先の感覚も消え失せて、みっともなく足が竦んでしまう。立ち止まり考える事すら出来ない。ただ愕然とするしかなく、働かない頭に動け動けと鞭を振るうのがやっと、懸命に前へ歩もうとする人へ掛ける声を探し当てる以前の問題だ。
言うなれば、精市くんは今まさに、大事な準備期間を迎えている。
低スペックな脳みそで以ってちっぽけな想像を浮かべるのが精々の、私なんかじゃ計り知れないくらいの重圧、不安、迷い、ありとあらゆる負の要素をも跳ねのけて飛び立とうとしている。

そんな大変な時の彼を、きっとすごく傷つけた。
他の誰でもない、よりにもよって自分がだ。

テニスコートの中でラケットを握っていれば別だけど、いつも穏やかに笑っていて大概の事には鷹揚、物柔らかな雰囲気を絶えず纏い、大声で怒鳴る場面なんて少なくとも私は目にした記憶がない。
お陰で余計に、嫌という程わかってしまった。
人並み外れた精神力の持ち主たる人が見せた一瞬の揺らぎ。
たったのひと言だったにもかかわらず色濃く如実に伝わり、空気をねぶって震わせた感情の意味を事ある毎に蘇らせ、噛み締めるよう繰り返し、その都度叩きのめされる。
自分と彼が同じレベルだとは世界がひっくり返っても思えないけど、同じように悲しんだり寂しかったり、苦しい事はあるのかもしれない。
どんなにすごい人にだって、怖いものはある。
当たり前なのに、当然過ぎる常識なのに、どうして今の今までわからなかったんだろう。
(あの時、まっすぐ、全速力で走ってけば良かったんだ)
つまらないお詫びの品なんか用意する必要はなかった。
遅刻をしても、焦らないでゆっくりおいでと笑って許してくれる、優しい人なのに。
自販機になんか寄らず、一目散に精市くんのところへ急いでいれば済む話だったのだ。
二度と味わいたくない過去を強制的に思い出させて、もしかしたら私が自分みたいに倒れて救急車で運ばれたのかもしれないという、恐ろしい‘もしも’を限りなくリアルに突き付け、たくさん傷つけた。かつての傷口を開かせただけでなく、負わなくてもいいものを生み出し、新たな傷跡を残したに違いない。
そういう、何も出来ないばかりかむしろ邪魔などうしようもない子に、一体どこの誰がこれからも一緒にいようと言ってくれるんだろう?
言うわけがない。
思うはずだってない。
だから私に明確な選択肢は提示されなかったのだ。
ぼつぼつと騒々しく傘を打つ雨の雫は弾丸めいて大きい。柄をしっかり握っていなければ重さに持っていかれてふらつきかねない程。普通は多少なりとも耳に入って来るであろう、周囲の生活音や気配というものが根こそぎ掻き消され、激しい雨粒に飲み込まれていく。傘の下で生きているはずの自分自身の息さえ聞こえず、今までの無配慮を責め立てる罵倒の只中に一人放り出された心地だ。
風雨に曝されぐらつく傘を握る掌が異様に滑って仕方がない、指の動きが変になる。独りでに縮こまる肩が窮屈で、上手く酸素を吸えない。下ばかり向いていたから、雨の川が出来たアスファルトを行くローファーがみじめったらしく濡れる様を事細かに見、浸食される順番まで無駄に知ってしまった。
止む気配のない幾千もの透明な雫は、空を塞ぐ雲から地上目掛けて振り下ろされる太い針のよう。
私は黙って降られるしかない。
バチが当たったと心の中で呟いた直後、そんなのは自分が許された気になって楽になりたいからそう思いたいだけ、即座に叩き折る。例えば力一杯ぶたれたりしても、公衆の面前で怒鳴り散らされたって、天罰だとは感じられないだろう。
(だって、‘ずる’だもん……)
身に起きた良くない出来事すべてが神の子に傷を与えた罰である、等と簡単に認めたが最後、際限なく甘えてしまう。自分が起こした悪事だというに自身で責任を取らず、天の采配に任せて委ねるのは単なる逃げだ。
あんなにも一瞬一瞬を己の体に刻むよう、汗だくになってラケットを振るい、一つも取り落とすまいとボールを打ち返す人を知っている。彼は自らを襲った悪夢を見えざる存在や天の神様、他人の所為にしたりしない。それをすぐ傍で見ていながら、これ以上ずるくて恥ずかしい人間になるわけにはいかなかった。世間の常識だからとか他者の目を気にしてとかではなく、私が絶対に嫌だった。
ぐ、と奥歯を噛む。
土砂降りに見舞われた街は地面を突く雨の煙で薄白く染まり出し、霧か霞に包まれたようおぼろげになる。小さな爆弾みたいに足元で弾ける無数の飛沫が膝から下を冷たく湿らせ、水を吸った靴と靴下は一歩進む毎に重さを増していく。
今日も雨。
明日も雨。
明後日も曇天は晴れず、陽の光は差さない予報だ。
目の下の皮膚がぴりついて渇き、瞳の表面は霞む一方で、濡れる兆しすらない。







土日を挟んで週明けの月曜日。
普段ならお休みの後の始まりがしんどい辛い嫌だと不平不満を抱えるところ、その元気も気力も沸いて来ない。
週間予報通りの曇りマークは放課後の時間辺りで雨に変わる事だけはきちんと覚えていたので、予習復習の類をするつもりも既にない私はぱらぱらと人の行き交う三階の廊下をぼんやり歩いて、とにかく帰ろうと昇降口を目指していた。
寄り道ひとつせずに規則正しく帰宅する娘の異変に気付いているらしい、お母さんは毎日おやつを用意してくれるようになったし、受験勉強は進んでいるのかとごくたまに聞いて来たお父さんも今は何も言わないでいてくれる。
ちょっと前までならまるきり小さな子供扱いだと憤慨したり情けなくなっていたが、最早その通りなのだからどうしようもない、私に声を上げる資格はないと沈黙に徹している。
灰色の雲の立ち込める太陽なき空に影響され、夕方と言うには程遠い時間帯にもかかわらず学校全体が重たげに陰って暗い。
時々、誰かの足音や話し声が幻みたいに遠くで響いた。
肩に下げた鞄の紐が皮膚と骨へ食い付く錯覚に見舞われ、尚更考えがまとまらなくなってゆく。寒いのか湿気で暑いのかもよくわからない。知らない場所に裸足でいるよう心細かった。

「こら廊下は走らず歩けー! 雨も降ってきそうだぞ、早く帰れー!」
「はーいごめんなさーい!」
「すぐ帰りまーす!」

軽やかな笑い声と一緒にぱっと散った知らない子達と先生の会話で視界が冴えた。
少しだけ振り返ってみるも、人影は既にない。本当に通りすがりの注意だったのだろう、きゃあきゃあと楽しげに騒ぐ人の余韻だけが残っている。
傾けていた首を戻す。
はたと足を止め、斜め前の窓に目を遣った。
豪快に開け放たれた様が見え、放っておけば今後降り注ぐ雨の侵入を許してしまう、ほとんど無意識に寄っていき鞄を下ろす。
それなりに年季の入ったサッシに手を掛け、硝子窓がカララとレールを滑り出したのと同時。
前触れは一切なかった。
喉の辺りを強烈な力で抑え付けられたみたいに動けなくなった。

目が合ったのだ。

緑の植え込みの間を綺麗に縫うよう整えられた煉瓦道の傍、あれきり姿を見掛けるどころか声のひと欠片すら耳にしていないその人が、真っ直ぐにこちらを見上げている。
途端に気が遠くなって息の仕方も忘れた。固まった指先が窓枠から剥がれない。知らないフリで逸らせばいいだけの話なのに両目の周りの筋肉は強張ったままだ。心臓の音も途絶えた。何も聞こえなくなってしまった。膝から下が細かく震え始めて、口の中が乾いているのにどうしてか込み上げる唾を飲む。
離れているのに貫かれる瞳の強さに瞬きも忘れ、角膜から水分が奪われ染みて痛い。
視線が交わり絡んだ。
肌は裏側からざわつく。
お腹の底がうねって揺れる。
ところが次の瞬間、は、と呼吸を呼び戻そうと唇を開きかけたのが早いか否か、私が勝手に自分に課した透明な拘束は解かれてしまう。
ひゅっと息が舌の奥へと引っ込んだ。
時間が一斉に動き始める。

そういう風にして、数秒にも満たない邂逅はあっけなく幕を閉じた。
どんなに遠くてもそれとわかる精市くんの眼差しが跡形もなく失われた所為だった。

全身から力という力が抜けアルミ製の転落防止ガードに半ばもたれ掛かる。どっと鼓動が蘇って早鐘を打ち、すっかり消えていた日常の音という音が舞い戻って来た。
下校をうながすチャイム。
こめかみと口の端がわななく。
下駄箱近くの大きな扉を乱暴に開いて走っていく幾つかの足音。
暴れる脈拍に押されて骨が軋む。
グラウントの周囲をランニングするどこかの部の掛け声。

――初めから存在していなかったもの扱いだった。
無視等という言葉では追い付かない、私を認めた後で目線を外したのでもなく、透かして後ろの壁を見詰めているんじゃないかと思うくらい、この世にいない人間として処理された。まるで彼の世界から弾き出されたように。

かつての光景が脳裏を巡って焼ける。
高校一年生の頃。
美術の授業中、スケッチブックを抱えていた私はずらと並ぶ窓枠の中から見つけてしまい、鉛筆を取り落とした。
しゃがんで拾い顔を上げると、今日とは逆の位置で目が合った。
精市くんは教室で授業を受けているさ中という事なんかお構いなしに目を細め微笑み、小さく手を振って来て、それで。
それで……、




たった今、眼球の底まで燃やした、視線の軌跡さえ残さず顔を背け去っていった彼の仕草を追いたくもないのに追った一瞬ののち、静かに呼ばれて肩が跳ねた。
いつだってすっきりとして涼やかな柳くんだった。
どうしたとこちらへ歩み寄って来、窓閉めが途中のまま宙ぶらりんになっている私を見下ろして、ああ、雨が降るからだな、と手早く解を導き出す。

「予報では降り出しまで今少し猶予があるようだが、今日はもう帰る所か?」

半端に開いていた窓を音も立てずにさっと閉めて鍵まで掛ける、手際と要領の良さを併せ持つ人がふと何かに気付いた風に鼻先を校舎の外へと僅かに傾けた。

「いや、違ったな。正確には精市と帰る所だったか、と尋ねるべきだった」

どんどん離れて行っているであろうかの背中でも発見したのか、語尾に淡い微笑みが混じっている。

「邪魔をしてすまない。余計な世話と思いはしたのだが……お前が熱心に何を見詰めているのか興味があったのでな。……と、この言い方はよろしくないか。あまり人の彼女をつつくなと釘を刺されているんだ。猫をも殺す好奇心で精市に叱られては元も子もない」

体の真ん中が大きな手でひと掴みされ潰されたみたいに呼吸がし辛い。
死にそうなくらい苦しい。
繰り返したくない、だけどついさっき味わわされたシーンが頭から消えてくれない。
怒りどころかどうでもいいとすら感じていないような、いっそ冷酷と評されてもおかしくはない、感情も豊かな色彩も全て取り払われた態度。
あんな風に精市くんから自分の存在そのものを無視される事なんて、今まで一度もなかった。
喉奥がまるごと絞られ肺が壊れそうになる。
準じて転がった声の音は縒れてひしゃげて酷いものだった。

「………怒るかな」

隣にいる柳くんがぴたっと動きを止める。

「……?」

気遣わしげに屈み込まれているのがそのひと声だけでわかって、もうダメだった。

「精市くん、まだ私の事で怒ってくれるのかなぁ……」

最後まで続けられたかも怪しい、かろうじて言えるだけ言った直後どっと涙が噴き上げ零れて肌が水浸しになる。あれだけ泣きたいのに泣けないと、その気配すらなかったはずのものが、今度は蛇口が壊れたよう溢れ返ってやまない。
熱を帯びた水の粒で頬が熱かった。唇の端にそれが引っ掛かるとしょっぱくて、また余計に泣けて来る。
ひく、と情けない弾みが湿った空気めがけて飛んでいった。
間髪いれずもう一度。
しゃくり上げる破目になり息を吸うのも吐くのもおぼつかない、うえっ、ぇっ、と泣いて暴れる小さな子と同じ嗚咽が漏れて、学校でこんな醜態を晒したくない、だけど勝手に出て来るものをどうやって処理したらいいのかわからなかった。

「ここで泣くな……」

心底呆れ果てた言い方で窘められても、自分ではどうする事も出来ないのだからしょうがない。

「まず、俺よりも本人に尋ねるべきだろう」

淡々と正論を告げる柳くんはしかし、それでも親切かつ変わらずにお節介なのだろう、どこから取り出したのか薄い紙のようなものを差し出してくれる。
滲んで大いに歪む視界の隅っこで見、よろよろと伸ばした手で受け取る、想像以上に厚みがない。ティッシュみたいに薄いと泣きながら眺める私に、それは懐紙と言う、とNHKアナウンサーさながら落ち着いたご説明。
ありがたく頂戴した。
涙よりまずこのままでは垂れそうな鼻水をどうにかしようと相応しい箇所へ持って行けば、今度は随分と遠慮なしにずいと顔のすぐ手前まで四,五枚ほど重なった状態のものが寄越された。追加でくれるらしい。
再度、丁重に頂く事にし、この期に及んで何を気にしている場合だと思いっきり鼻をかむ。
息苦しさに吐息が舌を這い落ちた。
すん、と啜るともう二枚貰えたので、ぐっしょり濡れた目元へ当てる。

「いとけない事だ」

ほとんど独り言に近い呟きが頭の上から降って来、釣られて目線を持ち上げて、背の高い同級生の読めない表情とかち合った。
なるほど、彼のお陰でいくらか視界は晴れつつある様子だ。

「無防備と言い換えても良い」

いとけない、の意味を理解していない私の為に付け加えたのであろう参謀が、つけ込まれかねないぞ、と少々茶化した風に薄い唇へ笑みを乗せ、聞きよいささめき声で語る。

「こうなる事がわかっていたから、精市もギリギリまで言わずにいたのだろう」

今さっき一緒に帰るのかと放って来ておいて私達の現状を正確に理解している辺り、本当に柳くんは読めないし油断ならない。
じゃあ最初から何かあったのかとか大丈夫かとかいう言い方をしてくれればいいじゃん。
八つ当たりもいい所の不満もよぎったのは一瞬、すぐさま別種の激しい感情に襲われ流されていく。
口元がひん曲がって震える。

「…楽し、かった事とか、う…嬉しかった事とか、い、いっぱい…あったは、ずなのに……。なんで、そのとき気付けなかったんだろ…っとか、なんで、あの時、もっとい…いろ、色々、気遣えなかった…だろ、ぅ、とか……そういうので、ぜんぶ…後悔に変わっちゃったよ……」

喘ぐ胸元の中心でけたたましくがなる心臓がうるさい、邪魔くさい。
嗚咽混じりの言葉が所々で引っ掛かって、何もない道で転ぶよう突っかかって、あちこちへ跳ねる声の情けなさにまた涙が沸いて来た。
胸がきつく締め付けられる。心臓が周りの組織ごと破れそう。
変な所から染み出る唾液で頬の内側が染みてしょうがない。
すっかり役目を終えた懐紙をぎゅうぎゅうに握り締め、どうにか息を繋ぐ。う、う、と絶え間なく唇を割る、意味をなさない単語の成りそこないが廊下に響いて聞こえひたすら恥じた。
これだから私はダメなんだ。柳くんに打ち明ける事じゃない。いや相手が誰だって吐くべき弱音じゃない。なんでいつもこうなの、どうして精市くんを上手く大事にできなかったんだろう、無数のなんでとどうしてが過去の全てをひっくるめて苦い悔恨へと作り替えてゆき、大切に覚えておきたかった思い出を粉々に壊して回る。
堪え切れず、握り拳の中に顔をうずめて泣くと指や爪先まで余す所なく濡れそぼって気持ち悪い。
生温かく塩辛い水が零れる傍から熱を失い冷えて惨めだ。

「…………だが、。あいつとて常に押し隠していたわけではないと…俺にはそう見える。言わずにいたのは事実だとしても、だ」

丁寧に言葉をなぞる声音に押されたのか、頭に酸素が多少届く。
腫れぼったく籠もった息を吸ってから返す。

「……………じゃあ、なに。なんで、やなぎくんがギリギリって言うくらい…長いあいだ、ほんとになにも…話してくれなかったの……」
「さて、俺は精市ではないのでな。あくまでも俺自身の見立てになるが、そうだな……本題に触れるのを避けていたのかもしれない。さもなくば、忘れていたんだろう」

お前といる時は。
事も無げに付いて来たひと言が信じ難くて半ば睨むように見上げてしまったものの、ぶつけられた方はといえばそ知らぬ顔、冴える頭脳の持ち主然とした風格を崩さずに続ける。

「神の子とて人の子だ」

そうして、驚くくらいきっぱり断言をした。
私は益々疑わしくなって、鼻から下を覆った両手近くから目先を動かし、さらさらの前髪の奥に在る、すうっと閉じられた柳くんの瞼を見た。

「お前もよく知る通りあいつは恐ろしく出来た人間だが……だからといって隅々まで完璧かと問われれば、俺は否と答えるぞ。今、お前が大泣きしているのが良い証拠だ。至らぬ点のある者が、真に偉大なる神の子供だとでも?」

段々、高名な教授の講義というか、諭されている気分になって来る。
力を込めていた拳からゆっくりほぐれ始め、時折、思い出したように涙が一つ、二つと伝い落ちていった。堰を切ったが如し勢いは失われているが、口に入ればやっぱりしょっぱい。

がそこまで悔いる事ではない。限りなく正確に把握し、理解しておきながら、手を打たずにいた精市にも非は在る」

私はびっくりして、掌の内側で口をぽかんと開けてしまう。
まさか精市くんと長い時間を共にし切磋琢磨したはずの、テニスという切っても切れない共通点のある‘立海テニス部の参謀’が味方してくれるとは、夢にも思わなかったのだ。
驚き過ぎて瞬きするのを忘れた。拍子に涙の粒がまたひとつ零れていく。
柳くんはこちら側を見遣り、ふっと息を落とした。

「どうした? そう見開いてしまっては、涙と一緒に目玉が落ちるぞ」

初夏の気持ちいい風に似たさやかな微笑みにかたどられた唇が、まるで詩を読むみたいに語り掛けて来る。

「無論、心情としては精市寄りだが、泣いている女子を突き放すほど俺も非道ではないつもりだ」

エスパーかというくらい見事に正解を導き出され、心の内を丸ごと読まれたにもかかわらず、不快感や恐怖心は皆無。ただただ呆気に取られるばかりだ。
アホそのものといった表情で固まる私をよそに、朗読めいた声音で淡々と紡がれる。
しかし、あいつも妙な所で不器用な男だな。
最後に、ふむ、と何かしらデータ収集されているんじゃないかと疑いたくなるひと言が加わりそうで、加わらない。だけどそんな内情が微かに感じ取れる物言いだった。

「それはわかったけど、でもじゃあなんで柳くんや他の皆には話していたのに私にだけ話してくれなかったの、どうでも良かったの。…と、お前は言う」
「……ゆってないし、いおうともしてない……」
「そうか。だが思ってはいただろう。察するに、ここ最近はずっと心に在った事なのではないか」

もう本格的に読心術の使い手である。ここまで看破されて何をどう反論せよと言うのか。

「逆だ、。ここに来てまた、再度、発想の転換が必要のようだな」

理知が服を着て歩いているような人にしては少しばかり唐突な切り出しだった。
眉を寄せながら見返す。
そういえばいつかどこかで聞いた覚えのある台詞だ。
柳くんは軽く肩を竦めて言う。

「精市は話さなかったのではない。細心の注意を払い、お前に気付かれぬよう心掛けていた。お前にだけは、だ。……意味がわかるな?」

私にとっては遠回しにしか思えない、明らかに含みを潜ませる彼はきっとこう訴えたいのだ。
特別だからだ、と。
瞬時にお腹の奥が焼けて煮え立ち心は反射的に叫んだ。

そんな特別扱い、嬉しくない!

憤怒や怒気じみて荒れささくれだった声にならない声はしかし、即座に収まり感情の波間に沈む。
『そんな風に特別扱いなんかされたくない』
強かに叩き付けられた、あの人の言葉。
鮮やかに蘇って思い知る。
柳くんの言葉が正しいとしたら、私達はお互いがお互いにされて嫌な事をしてたんだ。

の思考は読み易い。精市にも気を付けろと再三注意を受けなかったか」

泣くのも忘れ始めた愚か且つ出来の悪い生徒に、いよいよ後光まで差し込みそうな同学年とはにわかに信じ難い人が、背筋を伸ばせと暗に説いて来た。
背中の筋肉へ心持ち力を入れてみれば、意外とすんなり視点の位置が上がった。

「お前が一人、ここのところ延々と想像していた程、悲観的に日々を送ったわけではないだろう。病を得ている者の全てが床に伏し何もかもを諦め、しかし苦しみと共に戦い信念を貫く――、1日24時間まるごとをそうして過ごすとは限らない。時折、気を抜いた時とてあったろうと仮定する方が自然だ。精市が事ある毎に見せていた‘天秤’を知り得ているお前ならば、頷ける部分もあるんじゃないのか?」

滔々(とうとう)と言い募られて手も足も出ずに危うく呻きかける。
受諾し首肯せよと首ねっこを掴まれたわけでは決してない、だけど柳くんがなんだか不思議な空気を纏っていて、どうしてだろう、そうしょげるなと叱咤激励されている気分だ。
所詮私の事だから大いなる勘違いの可能性も有り得るので堂々言及は出来ず、迷いながら視線を俯かせ、口元に固定していた軽い握り拳をやや離してから丸まった指先と爪を見るともなく見る。いっぺんにどっと溢れた涙の所為でまだうすく濡れており、突然の雨に降られ慌てて手を傘代わりにした時みたいだと思った。
今、傍にいるのにちょうどいい距離を保ったままの同級生の男の子はもしかすると、私があんまりにも酷い有様だから、見るに見かねて憐れんでくれたのかもしれない。

「まぁ、そういったお前達の事情はさておいて」

さておかれた。
しかも私だけじゃなくて精市くんまでひとまとめにされた。

が抱えた後悔には覚えがある」

え?
返せたかはわからない。
条件反射的に首筋を伸ばし仰げば、湿り気だらけの季節に似つかわしくない、相も変わらず涼しげな横顔がきっちり締められた窓の外へと向けられている。
私は達人でも参謀でも神の子でもないから、人の考えている事なんて読めるはずもなく、あるかどうかも不確かな続きを待つ事しか出来なかった。
柳くんがほんの少しだけ、真っ直ぐな鼻筋を傾け、それから静かに私の方を向いた。

「かつて、俺達も味わったものだからな」

とてもとても落ち着いた物言いだ。
いつも通りの彼らしい声音だった。
私は今度こそ捻って曲がっていた体の軸を正し、竹林のごとく佇む隣人へ向き直る。
長い間どこにも吐き出せないままにぐるぐる回って今もどぐろを巻いている、ついさっき味わった心も体も濁らせる悔恨が質量を持って再び襲って来、だが地に足裏が沈み込む境地には陥らない。
その後すぐに浮かんだ様々な情景の所為だった。

時にはクラスメイトにもなった柳くんから貰った、たくさんの為になる助言や荒くなったりも地に落ちたりもしない凛とした声の響きを耳の中で辿る。
真田くんの分厚い鋼の板が入っているんじゃないかと疑いたくなる立派な背中や、しっかりせんかと大きな声で怒って来る時のいかめしい顔つきを思い出す。
夏らしく陽射しのきつい日、おやさん、どうぞ日陰の方へ、声を掛けてくれた柳生くんの紳士然とした仕草。ちょっと見てるだから大丈夫と返したら、ではこちらをお使いくださいと見るからに高そうな日傘を差し出され、慌てて辞退した放課後のテニスコートの匂いが鼻の奥を掠めた。
桑原くんは立海テニス部の中で一番控えめな心遣いを持っており、精市くんに振り回されている私に多分同情しているのだろう、いつも大変だな、頑張れよ、と憐みの眼差しで励まされた事が何度か。
丸井くんはチューインガムを膨らませるのが職人級に上手だ。素直に感心してすごいねとつい口に出してしまったり、タイミングが合えばお菓子を分けたりしていたら、三、四回に一回くらいの確率でこれやるよとお返しにガムをくれた。
仁王くんは私のちっぽけな人生の中で出会った人の内よくわからない度ナンバーワン、興味があるのかないのか少しも判断出来ない目の色で、お前さんもよう付き合っちょるの、通りすがりに揶揄され、かと思えばごくごくたまに、そっち通った方が早いぜよ、と遅刻寸前のところを助けてくれたりする。
いつ何時、どこのどんな場所ですれ違おうとも欠かさずに挨拶をしてくれる切原くんはといえば、直近の記憶にもある通り、鞄を持とうだとか精市くんを呼んで来るだとか、つまり後輩らしい気遣いを意外なくらい忘れないのだった。

私が知っている彼らの姿と、後悔なんて言葉はどうしても結び付かない。
‘なんでその時、気付かなかった’
‘なんであの時、もっと気遣えなかった’
悔やんでも悔やみ切れない想いが重なって散らばり、立海で過ごして来た日々や私が僅かながら垣間見たテニス部の人達の表情と一緒くたになって溶けてゆく。
こくりと唾を飲んだ。
重力に従い流れるのを忘れていた涙がひとつ、頬骨の辺りで速度を落としながら伝い、鎖骨の上の肌に混じる。
いつの間にか、胸の嵐は去っていた。
柳くんの言う事には常に説得力が付き物なので、異を唱えるという選択肢がまず浮上して来ない所為でもある。

「……私って周回遅れなんだよ。みんなよりずっと後に生まれたみたいな、すごく大きな差があるようにか思えないよ」

先ほどから入れ代わってはいないはずなのに、肺に取り込まれる酸素は清々しく冷たくて新鮮に感じられた。
わりと近くで微笑の滲んだ吐息が軽やかに空気を揺らし、

「まぁそうだな。だが」

無残にもあっさりさらっと同意をされ、

「お前自身は煩わしく思っているかもしれないが……その大雑把で切り替え上手な所は、尊ぶべき長所だと思うぞ」

喜んでいいのか悪いのか微妙過ぎるお褒めの言葉を頂戴する。
それで、体の強張りが全部ほどけた。
急速に活力を取り戻した血に燃やされ、心臓があたたかに騒ぎ出す。まるきり体温が失われていた指の五本ともに行き渡った熱に押され、徐々に感覚が舞い戻り、長々と深い息を吐く事がようやく叶った。
水分を失って渇きを訴える舌や喉の奥が擦れてしみてちょっと痛い。

「…………も…もう、ダ、ダメじゃ…ないかな。手遅れなんじゃ…ないのかな」
「確かに遅きに失するとも言いはする。しかし、俺の見立てでは否だ。仮に辿り付くのが遅かったとして何が問題だ? 追い付けば良いだけの話ではないのか」

以前の精市くんもそうだったけど、柳くんといいどうして二人ともこう落ち着き払った声で落ち着いた事を言うのだろう。
私程度の脳みそで一生懸命考えるより倍近く迅速に、颯爽と筋道を立てていく。
段々そっちが正しい気がしてきちゃうじゃん。
心の声がなんの障害もなく唇から飛び出す所だった。全速力で走れば本当に間に合うような気さえして来る。
涙などとうに引っ込んだっきり、今や見る影もなし。
きっと私は柳くんの冴え渡り過ぎて怖い頭脳に収められたデータ通り、大雑把で単純で切り替えが早いのだ。

「らしくないな」

だってすぐ信じてしまう。
まだ怖くて足が竦みそうなのに、確信なんてこれっぽっちも抱けていないくせして、期待だけは一人前に持ってしまっている。

「いつものお前のままで構わない。臆さずに打って出てみたらどうだ、

ニヤリ。
効果音を付けるとしたらこれしかない、というくらい不敵な笑みを零した柳くんの、音もなくふっと開かれた涼しげな瞳は驚くほど澄んだ色を湛えていた。

「その持ち前の立ち直りの早さで、精市を迎え撃て」





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